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宇都宮地方裁判所 昭和37年(わ)217号 判決

被告人 長岐和博

主文

被告人を懲役拾年に処する。

未決勾留日数中千百日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は昭和二一年一二月頃、宇都宮市御幸ケ原町に開拓農として入植した父長岐徳蔵に伴われ同所一四六番地の一に家族と居住し、同市立陽北中学校卒業後工業高校の受験に失敗してからは父および母リンらと共に農業に従事してきたものであるが、かねてから父徳蔵が短気、粗暴な性格に加えて身体の故障もあり、被告人ら家族を酷使するばかりか、気にいらないことがあると強く叱責したり暴行を加え、また些細なことで町内の近隣者らとも反目抗争し、次等に近隣者からもうとまれるに至つたため、いたく家庭生活の将来を悲観し、右徳蔵および家族弟妹らの日常通行する農道の道端に毒入りジユースを置き、同人らに拾得飲用せしめてこれを殺害し自らも右ジユースを飲用して自殺するいわゆる一家心中を企て、昭和三七年四月五日午後九時頃前記自宅付近農道の道端等三箇所((い)居宅西北方約二三米の農道傍、(ろ)同じく南方約一六一米農道傍、(は)同じく南西方約四〇〇米の五叉路、奈坪橋付近)に予め毒物である農薬用テツプ(有機燐剤日曹テツプ)を注射器で注入したポリエチレン製袋入ジユース各二本宛合計六本を分散配置したが、翌六日午前六時三〇分頃、右(い)(ろ)の箇所を順次に通行した藤井清治(当時三四才)において同所に在つたジユース入袋を発見しそのうち(い)の箇所の二本を拾得して同市御幸町一八七番地の自宅に持ち帰り、さらに同人より右(ろ)にも同様のジユースがあつた旨聞きつけた同人の長男茂男(当時九才)および次男明夫(当時七才)の両名においても同所に赴き前記二本を拾得して持帰り右自宅で前記茂男、明夫および清治の長女晴美(当時四才)において右毒入りジユースを飲用した結果、同日午前七時四〇分頃、同市御幸町六八番地の松村外科分院において右三名をして前記テツプに含有する有機燐の中毒により死亡するに至らしめ、以て同人らを殺害し、父徳蔵および母リンに対する殺害の企図は予備に止まつたもので被告人は右犯行当時心神耗弱の状態にあつたものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は

(1)  被告人が本件犯行当時精神分裂病に罹患していたことは鑑定人中田修、同新井尚賢の各鑑定により明らかなところであり、被告人は刑法上いわゆる心神喪失者にあたるものであるから被告人は無罪である。

(2)  仮に被告人が有罪であるとしても、被告人は本件被害者らを殺害する意図は有しなかつたのであるから本件においては単なる過失致死罪の成立あるに過ぎない。

と主張するので以下この点について判断する。

(一)  まず弁護人主張の第一の点について検討する。

被告人の精神状態について鑑定が為された場合でも裁判所はその鑑定結果に必ずしも拘束されるものではなく、公判に顕出された総ての証拠を総合して被告人の責任能力の有無を判断すべきこと、その精神に障害があると鑑定された場合これが刑法上いわゆる心神喪失か心神耗弱かの判断は専ら裁判所の為すべきところであり従つて右鑑定結果の採否は証拠法上の諸法則に反しない限り裁判所の専権に属するものであることは刑法第三九条の解釈に関する従来の判例(大審院昭和六年一二月三日判決、集一〇巻六八二頁、同昭和七年一一月二一日判決、集一一巻一、六四四頁、同昭和八年八月三〇日判決、集一二巻一、四四五頁、最高裁判所昭和二三年一一月一七日大法廷判決、同昭和二四年二月二二日第三小法廷判決、同昭和三三年二月一一日第三小法廷決定、集一二巻二号一六八頁)から明らかなところであるばかりでなく、医学者もまた一般にこれを肯認している(上野正吉「新法医学」昭和四〇年版二五〇頁、三浦岱栄、塩崎正勝「現代精神医学」昭和三八年版三二八頁、その他後記各精神病医学者)。

そして精神病者であるからといつて直ちに刑法上いわゆる心神喪失者となし得ないことは昭和三六年改正刑法準備草案第一五条が精神障害者について場合を分ち現行刑法の心神喪失と心神耗弱に対応する規定を設けていることや(準備草案にいう精神障害者が精神衛生第三条に定義する精神病者を包含することは明らかなところである)、現在精神障害受刑者の中に相当多数の精神分裂病患者(その中には刑の執行開始後に至つて症状の悪化した者やまた発病そのものが判決後の者もあろうけれども)を算える(西田捷美「医療刑務所から見た精神障害犯罪者」犯罪学年報第三巻昭和四〇年版六一頁以下)こと等からも充分窺えるところである。

鑑定人中田修作成の鑑定書によれば「被告人が精神分裂病であるとの診断を医師から受けたときは心神喪失者として刑事責任能力を否定すべきであるとするのが今日の精神医学界における支配的見解である」というが、果してそうであろうか。

グルーレ「精神鑑定」中田修訳昭和三二年版二七頁には「精神分裂病がたしかに存在するならば病症と行為との間の動機的関連の有無を問わず責任無能力である」とあり、林暲「精神医学的の立場からみた刑事責任能力の規定」(前記犯罪学年報一〇-一一頁)も「分裂病は診断が確実である限りほとんど常に責任無能力と考えるべきであろう」といい、植村秀三「刑事責任能力と精神鑑定」(司法研究報告書第八輯第七号)もこの立場をとるドイツの精神病学者を紹介している。しかしながら「精神分裂病は責任無能力と判定されるのが普通ではあるが、その初期、寛解状態ないしは欠陥治癒の際には疑義の生ずる余地があり、その当時の状態像の如何によつて個々に考察されるべきであろう」(三浦岱栄、塩崎正勝「現代精神医学」昭和三八年版三二九頁)とする学者もあり、これと同説を唱える者に内村祐之「責任能力」昭和二七年版一九頁以下、村松常雄「精神衛生」昭和三八年版三二〇-三二一頁、植松七九郎「精神医学」昭和二五年版二〇〇-二三一頁、三八〇-三八五頁がある。特に本件における鑑定人竹山恒寿作成の鑑書中には前記中田修の説に反する精神分裂病という名称の命名者であるブロイラーなどは病初期や軽症の精神分裂病では是非の弁別やこれに基いて行為する能力はなお全く失われていると解すべきではないと言い、この考えに賛同する者も多い。自分もまたその立場を支持する」との記載があり、結局精神分裂病と診断されれば心神喪失者として刑事責任能力を否定されるのが精神病学界における支配的見解と一概に言いきれるものではないのである。

そこで問題は被告人の分裂病として症状如何である。右竹山鑑定書は「さて被告人の精神分裂病であるが、それは空想性・嗜虐性・耽溺性といつた傾向をもち、生活意欲が失われている状態で、性格の異常を主徴としている単一型の精神分裂病である。真の幻覚や自閉症、妄想形成などがみられるような完熟した破瓜型病像をもつていない。それは分裂病質としての異常人格をもつものと同格に考えてよい。彼の程度のものはいわば慢性非進行性軽症分裂病である。その是非弁別やこれに基いて行為する能力は通常より著しく減弱しているといえるだろうが、なお全く失われているものとは言い難い」というのである。

比較的近時の事実審において精神分裂病により心神喪失と判断された諸事例(高松高裁昭和二八年六月一一日判決、高判特報三六号一五頁、水戸地裁昭和三三年八月二一日判決、第一審刑集一巻八号一、二五九頁、長崎地裁同年九月一〇日判決、同集一巻九号一、三三九頁、京都地裁同年九月二五日判決、同集一巻九号一、五五二頁、東京地裁同年一二月二五日判決、同集一巻一二号二、一三四頁)を見ても本件被告人について前記三名の鑑定人の診断したところより(もつとも鑑定人新井尚賢の鑑定書中の記載によれば被告人の症状は犯行当時よりも軽快に赴いているとのことであるがこの点については後記三鑑定の比較対照の項参照)いずれも症状が重篤なものばかりであり、またこれら鑑定人の記載による被告人の精神状態は公刊されている精神病に関する諸文献に記載されている精神分裂病についての徴候、諸症状のうち一、二符合する点は存するものの被告人の症状がそれらに比して軽症と認められることは前記竹山鑑定の指摘のとおりである(クルトシユナイダー「臨床精神病理学」平井静也、鹿子木敏範訳昭和三八年版九九-一五九頁、シンコフスキー「精神分裂病」村上仁訳昭和三七年版七三頁以下、一九〇頁以下、ビンスワンガー「精神分裂症」I、II新海安彦他二名訳昭和三六年版、コツレ「精神医学における人間像」久保喜代二、塩崎正勝訳昭和四〇年版、三宅鉱一(島薗安雄増補)「精神病学提要」昭和三三年版一七〇頁以下、三宅鉱一「精神鑑定例」昭和二七年版五四二-五六五頁、西丸四方「精神医学入門」昭和四〇年版五四-六八頁、新福尚武「新精神医学」昭和四〇年版一三二-一六二頁、荻野恒一「精神病理学入門」昭和三九年版一五五-二〇四頁、なお大審院昭和八年五月三日判決、集一二巻五三三頁、福岡高裁昭和三〇月一〇月二二日判決、高裁特報二巻二〇号一、〇六三頁)

ひるがえつて次に被告人の精神状態について考察を加える。

(1) 被告人の家系における精神病的負因

鑑定人中田修、同新井尚賢、同竹山恒寿作成の各鑑定書によれば次の事実が認められられる。

被告人の家系において父方には明らかな精神病者は見られないが異常性格者が見られる。母方には精神病者と思われる者が少なからず見出され(斎藤ソウ、田村広吉、斎藤十七郎、斎藤長寿)全体を通じ本家系には精神異常および性格偏倚などの遣伝的負因が存在するものと考えられる。

従つて被告人はかなり濃厚な精神異常の負因を有し、これが被告人の人格形成に無縁だとはいえないこと。

(2) 被告人の犯行時の精神状態に関する鑑定結果

(い) 鑑定人中田修の鑑定書および証人中田修に対する前記公判調書中の供述記載によれば、被告人は本件犯行当時精神分裂病に罹患しており法家のいわゆる心神喪失の状態にあつたものと考えられる。被告人は鑑定時現在精神分裂病(破瓜型)に罹患しており精神分裂病と診断されれば行為と動機との間における精神病症状による関連性の有無に拘らず責任無能力とすべきが支配的見解であるというのである。

(ろ) 鑑定人新井尚賢の鑑定書と証人新井尚賢の前記尋問調書中の供述記載によれば、被告人は中学三年頃から徐々に発病し本件当時も精神分裂病の諸症状があつた。しかし本件行為と分裂病の症状との間には直接の動機的関連はないものと判断される。精神分裂病でさえあれば如何なる場合と雖も責任無能力とされる見解が支配的ではあるが、特殊な場合で例えば人格障害が比較的軽微でしかも症状との動機的関連が極めて稀薄である場合には或る程度の責任能力を認める立場もある。結論として本件犯行当時被告人には分裂病的人格障害がありそれがため是非の弁別に従つて行動する能力が著しく低下していたものと考える(ただ精神鑑定時現在においてその症状は本件行為当時より軽快に赴いている)というのである。

(は) 鑑定人竹山恒寿の鑑定書と証人竹山恒寿の前記尋問調書中の供述記載によれば、被告人の精神分裂病は空想性、嗜虐性、耽溺性といつた傾向をもち生活意欲が失われている状態で性格の異常を主徴としている単一型の精神分裂病である。真の幻覚や自閉症、妄想形成などがみられるような完熟した破瓜型病像をもつていない。それは分裂病質としての異常人格をもつものと同格に考えてよい。彼の程度のものはいわば慢性非進行性軽症分裂病である。その是非弁別やこれに基いて行為する能力は通常より著しく減弱しているといえるだろうがなお全く失われているものとは言い難い。

以上を総合して最後に被告人の責任能力について考えてみるのに当裁判所は本件審理の全過程を通じて見られる被告人の供述および態度(特に自己の主張に反する証拠方法の取調べに対する反応等に著しく現われる緊張した態度)を観察して被告人が犯行当時から今日に至るまでの間において心神喪失の状態にあり若しくはあつたものとは到底認めることができない。それどころか利害の判断等は極めて正常であるという感じさえ抱かせるのである。尤も斯様な観察は精神病医の立場からすれば危険なものといえるであろうからその専門的知識経験による鑑定結果はこれを尊重せねばならない。そして前記三鑑定人の鑑定結果によれば心神喪失とするもの一に対し心神耗弱と認められるものが二であり。当裁判所の心証もまた前記のとおりである。従つて被告人に対しては本件犯行当時心神耗弱の状態に在つたものと認めるのを相当とするからこの点に関する弁護人の主張は採用することができない。

(二)  次に弁護人の主張の第二点について考察を加える。

弁護人は本件において被害者らの死亡という結果は被告人が全く予期しなかつたところである、被告人には彼らを殺害する意図がもともとなかつたのであるから被告人の行為が殺人罪を構成することはあり得ず、単なる過失致死罪に過ぎないと主張するのである。

しかしながら行為者の執つた具体的手段の結果が彼の予見したところとは別個の客体の上に発生した場合でもいわゆる打撃の錯誤の問題として被害法益が同価値である限り単純にその所期以外の客体に対する既遂罪の成立を認めるのが通説、判例(大審院大正六年一二月一四日判決、録第二三輯一、三六五頁、同大正一一年五月九日判決、集一巻三一三頁、同大正一五年七月三日判決、集五巻三九五頁、同昭和六年一〇月一二日判決、集一〇巻四四〇頁参照)である。

ところで本件の場合被告人は尊属殺人の普通殺人との二罪を企図してその予備をなし(この点については後に詳述する)、後者は発展して既遂の段階に達したのであるからかような場合は殺人未遂と過失致死罪との観念的競合となるのではなく、普通殺人については単純に殺人既遂罪を構成するものと解すべきことは前記の通説、判例からして明らかなところというべきであるが、仮に錯誤論においてこの解釈を採らないとしても既に被告人の家族らに対する殺害の犯意が認定できる以上単純に過失致死罪に止まるということはできないからいずれにしてもこの点に関する弁護人の主張はこれを採用するに由ないものといわなければならない。

(本件犯罪の罪数等について)

被告人の本件行為が如何なる犯罪を構成するかは正に法令の適用の問題であるが適条の箇所で説示するのは些か冗長になるので便宜上ここに予め説明しておくこととする。

まず被告人が父親および母親を含む家族全員を殺害せんとして毒薬入りジユースの袋を判示のように道路に分散配置した行為は尊属殺および普通殺人罪の単なる予備行為に過ぎないのかそれとも実行の着手まで進んだといい得るかの問題がある。もし実行の着手があつたものとするならば未遂犯となる尊属殺については検察官が予備に止まるものと主張する以上あらたに訴因の追加を命じなければならないこととなる。

実行の着手については従来学説上種々の対立があり判例また学説と必ずしも軌を一にしないけれども、当裁判所としては、行為が結果発生のおそれある客観的状態に至つた場合、換言すれば保護客体を直接危険ならしめるような法益侵害に対する現実的危険性を発生せしめた場合をもつて実行の着手があつたと解するもので、この考えは殺人罪における実行の着手に関する左記諸判例から必然的に帰納されたものである。

(1)  「毒殺罪に付ては殺意を以て毒薬を調合し其之を服用せしめんとする人に渡したる所為は末だ実行に着手したるものに非ず。現に毒薬を服用せしめ又は目的の人が服用すべき状況に毒薬を供した時に於て始めて実行の着手あるものとす」(大審院明治三六年六月二三日判決、録第九輯一、一四九頁)

(2)  「刑法第二九三条(旧法)の罪を構成するには被害者に対して毒物を施用したる事実あるを必要とする。而して本件被告が選びたる塩酸モルヒネは人をして服用せしむるに因て殺害の目的を達すべきものなるを以て被告に於て之を被害者の服用すべき状態に置きたる事実即ち例へば人に対し飲食物として贈与するか然らざれば其使用すべき食器に之を装置し或は飲食物を措くべき場所に之を提供するか其何れの場合を問はず必然人の飲食すべき状態に毒物を提供する事実あるを要す」(大審院明治三七年六月二四日判決、録第一〇輯一、四〇三頁)

(3)  「特定人を殺す目的を以て人を殺すに足る毒物を含有せる饅頭を其の者の家に持参し毒物含有の事実を秘して其の者に交付したる場合に在りては犯人に於て毒殺の実行手段を尽したるものなれば其の者が未だ現実該饅頭を食せずとするも既に段人の着手ありたりと謂うべく従て本件に於て原判決が被告人が毒薬黄燐を含有する猫いらずと称する殺鼠剤定価十銭のもの約三分の一を饅頭七箇に混入し山中弥清方へ赴き弥清及其の家人の食することあるべきを認識しながら之を弥清に交付したるところ弥清が之を食せざるに先ち事発覚して同人殺害の目的を遂げざりし事実を認定し被告人の行為を刑法第二〇三条、第一九九条に問擬したるは正当にして……」(大審院昭和七年一二月一二日判決、刑集一一巻一、八八一頁)

(4)  「被告は毒薬混入の砂糖を高月三郎に送付するときは三郎又は其家族に於て之を純粋の砂糖なりと誤信して之を食用し中毒死に至ることあるを予見せしに拘らず猛毒薬昇汞一封度を白砂糖一斤に混じ……歳暮の贈品たる白砂糖なるが如く装い小包郵便に付して之を三郎に送付し同人は之を純粋の砂糖なりと思惟し受領したる後調味の為其一匙を薩摩煮に投じたる際毒薬の混入し居ることを発見したる為め同人及其家族は之を食するに至らざりし」(事実につき)「他人が食用の結果中毒死に至ることあるべきを予見しながら毒物を其飲食し得べき状態に置きたる事実あるときは是れ毒殺行為に着手したるものに外ならざるものとす」「右毒薬混入の砂糖は三郎が之を受領したる時に於て同人又は其家族の食用し得べき状態の下に置かれたるものにして既に毒殺行為の着手ありたるものと云うを得べきこと上文説明の趣旨に照し寸毫も疑なき所なりとす」(大審院大正七年一一月一六日判決、録第二四輯一、三五二頁)

ところで「実行の着手」なる概念については行為が犯罪構成要件の一部を実現することであるとし、また法益侵害の一般的、抽象的な危険の発生をもつて実行の着手があるとする説もある。かような見地からすれば本件の場合は被告人が毒入りジユースを農道に分散配置した時において既に犯罪の実行の着手ありとすることになろうしまた常識も一般的にこれを肯認するであろう。しかしながら、農道に単に食品が配置されたというだけではそれが直ちに他人の食用に供されたといえないことは明らかである。すなわち農村においては野ねずみ、害虫等の駆除のため毒物混入の食品を農道に配置することもあるであろうし、道に棄てた物を必ずしも人が食用に供するとは限らないからである。尤も本件のようにビニール袋入りのジユースではこれを他人が発見した場合右のような目的に使用された毒物混入食品とは思わないであろうから比較的に拾得飲用される危険は成人はともかく幼児などについては相当大きいといわなければならない。被告人は自分の家族なればこそ以前に他人の棄てた食品を拾得して食用に供した経験があるからこれを拾得するだろうが自分の家族以外の他人がかようなことをするはずはないと述べるけれども本件毒物を配置した場所は自分の居宅敷地内ではなく道路であり、前記(い)、(ろ)の箇所こそ居宅の附近であるが(は)の箇所は弟妹らが平素よく遊びに出掛ける箇所であるとはいえ居宅から約四〇〇米も離れておりまた以上いずれの箇所も他人が通行する場所であるのだから他人にも拾得される危険の存することは論をまたないところである。ただ左様な危険の存するからといつてただちに本件被告人の行為をもつて犯罪実行の着手と認めることとができないのは前示のとおりであるばかりでなく前記引用の諸判例に示された法律上の見解からすればなおさら本件被告人の行為をもつて他人の食用に供されたと見ることはできないからである。

以上の次第で本件においては毒入りジユースの配置をもつて尊属殺および普通殺人の各予備行為と解し(しかる以上は尊属殺につき検察官に対し訴因の追加を命ずる必要もない)、ただ本件被害者らによつて右ジユースが拾得飲用される直前に普通殺人について実行の着手があり(被害者らの祖母が味を試すため口をつけた点は未遂罪となるが本件では訴因となつていない)、殺害によつて普通殺人罪が既遂に達しこれと尊属殺人の予備罪とは観念的競合となると解する。

(法令の適用)

法律に照すに被告人の判示所為中尊属殺人予備の点は刑法第二〇〇条、第二〇一条本文に、殺人の点は同法第一九九条に各該当するところ以上は一個の行為で数個の罪名に触れる場合であるから同法第五四条第一項前段、第一〇条により最も重い藤井茂男に対する殺人の一罪とし所定刑中無期懲役刑を選択して処断すべきところ被告人は本件犯行当時心神耗弱の状態にあつた者であるから同法第三九条第二項、第六八条第二号により法律上の減軽をした刑期範囲内で被告人を懲役十年に処し同法第二一条により未決勾留日数中千百日を右刑に算入すべく、訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項担書に則り被告人に負担させないこととする(なお本件犯行において使用された農薬テツプの空瓶、ジユースのビニール空袋、洋射針等は本件犯行の供用物件とは認められないから没収の対象たり得ない)。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 沼尻芳孝 福森浩 杉山修)

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